がんは、古代からある病気で、エイジング(年を取ること)とともに頻度が高くなるため、平均寿命の低い時代においては、あまり注目されることはありませんでした。それは、江戸時代の医師の症例報告の中にがんがほとんど見られない、という事実と相俟って、近年まで漢方治療の対象になる病気とは考えられてはいませんでした。しかし、1981年から日本人の死因のトップとなり、2010年度では死因の約3割を占めるようになって、その治療に最大限の関心が集まるようになると同時に、漢方薬でがんを治すことが出来るのか、という命題が漢方専門医の前に突きつけられたのでした。
がんは漢方薬で治るのでしょうか。
それとも治らないのでしょうか。
1.「がん」に対する漢方薬の役割
実は、「がん」が漢方薬で治る、というデータは存在しないのです。
がんに対する漢方薬の効果に関して、西洋医学では常識となっている無作為比較試験はもちろんのこと、症例集積研究すらありません。もちろんある種の研究や症例報告はありますが、それらは、がんを治すというよりも、患者さんの食欲を改善したり、痛みをやわらげたり、治療の副作用を軽減したりして総合的にQOL(Quality of Life、生活の質)を上げることにより、結果的に延命を図ったり、場合によっては寛解に持ち込むことの出来たものがほとんどなのです。
そんなことが、と思われるかもしれません。けれども、これが、漢方医学が出来る重要な役割のうちのいくつかなのです。
「がんの漢方治療」はシリーズ記事です。これから数回にわたって、医療現場における漢方医学の考え方や役割を記していきます。
ここでは、その導入として、いくつかのお話をしましょう。
癌に対する漢方薬の役割は、いくつもあります。
一番は、患者さんのQOLをあげることです。
2.患者さんの状況によって適応する漢方薬は異なる
漢方医学は、人体に「正気」という体を正常に保つ役割を持つ気が存在し、これが病気にならないように体を守っていると考えています。これに対して、本来体に存在せず、存在すれば必ず体に悪影響をおよぼすものを「邪気」といいます。
例えば、風邪を引くのは外から風邪(ふうじゃ)という邪気が入ってくるからです。寒いところにいると下痢する人は、寒邪がお腹に入ったからです。
しかし、邪は外から入るとは限りません。正常に流れている血が滞ると「瘀血」という邪に転換しますし、正常な水分が淀んでしまうと「痰飲」という邪になって体を障害します。このような邪は退治しなければなりません。漢方薬はそのために大いに役に立ちます。邪を取り除く治療法を瀉法といいます。
ところで、病気が治るというのは、体の中の正気が正常に働いて初めて可能となるのです。病気に対して適切な治療をすると(あるいはしなくても)、あとは放っておいても治るのは、正気の働きによるものです。この正気の働きを助ける治療法を補法といいます。
がんは、人間の体にとって存在してはならない「邪」なのです。ですから、何らかの方法で体から駆逐しなければなりません。その方法が、手術であり、放射線療法であり、抗がん剤投与なのです。漢方医学の立場からみると、いずれもがんという邪を体から消し去ろうという方法で、瀉法に相当します。
けれども、このような治療法は、生体にダメージを与え、食欲がなくなったり、体力がなくなったりします。これに対して西洋医学は良い治療法を持っていません。つまり、正気を助ける方法が極めて少ないのです。点滴にしても、足りないものを外から補うに過ぎません。体の自然回復力を助けるわけではないのです
一方、漢方薬は、体が自ら回復していく力をつけてくれます。
漢方薬は、複数の生薬からなる複合処方です。含まれている薬物の中の、どれか1つの薬物が効いている、と言うわけではありませんし、中の特定の成分だけが有効成分という訳でもありません。処方全体で効いているのです。
しかし、がんに対して、この処方だけ用いていれば大丈夫、という漢方薬はありません。状況によって使い分ける必要があるのです。
3.状況による漢方薬の選び方
一口にがんと言ってもさまざまな種類がありますし、どのような治療を受けているか(あるいは受ける予定か)、すでに治療を受けてどのような状況にあるのかによって、用いる漢方薬の種類も変わります。
ここでは、それぞれの状況に応じた漢方治療を紹介しましょう。
? 現在、抗がん剤を使用しているとき
上に述べましたように、抗がん剤は邪気を駆逐する薬物です。がん細胞の増殖を、いくつかの方法(DNA合成阻害、細胞分裂阻害、DNA損傷、代謝拮抗、栄養阻害など)で抑制もしくは停止させるものです。
しかし、これらの薬物は、邪であるがん細胞に作用すると同時に、正気である正常な細胞や免疫機能にも障害を与えます。がん細胞に特異的に効くとはいっても、正常の細胞もある程度の障害を受けます。
これが副作用と呼ばれるものです。抗がん剤の副作用は劇烈なものが多く、その副作用ゆえに、治療が継続できなくなることもあります。
このときに正気を補い、生体の機能を保ちつつ、副作用を軽減することが出来るのが漢方薬です。いわゆる「補剤」と呼ばれる処方(補中益気湯、十全大補湯、人参養栄湯など)が多く用いられています。あるいは、副作用の種類によって漢方薬を使い分ける方法もあります(例えば、塩酸イリノテカンの副作用としての下痢に半夏瀉心湯を用いる、など)。
いずれにしても、抗がん剤を使用しているとき、漢方薬は必ず何らかの役に立ちます。
これらについての詳しい内容は、次回にご説明させていただきます。
? これから手術を受けるとき
がんは、生体にとって「邪」ですから、これを取り去ることができる「手術」という手段は極めて有効で重要です。しかし、全く問題がないわけではありません。
手術は、生体に侵襲を加えるものです。生体はこれによってダメージを受けます。そして、ある種の過剰な炎症反応を引き起こします。さらにその結果、免疫抑制反応が遷延する状態が生じてしまうこともあります。
がんの手術は、通常大がかりで、いくつかの臓器にかなりの損傷を与えます。つまり、「正気」が大きな被害を蒙ります。
このときに、手術前から「正気」を補う漢方薬を服用していると、上に述べたようなダメージをかなり軽減することが出来ます。処方は、補中益気湯や十全大補湯が推奨されています。
なお、手術後に起こるいくつかのトラブルも漢方薬で対処可能のものが多くあります(例えば術後のイレウスなど)。
? これから放射線療法を受けるとき(あるいはすでに受けているとき)
放射線療法は、高エネルギーのX線を体の外から照射し、がん細胞にダメージを与える治療法です。しかし、まわりにある正常な細胞にも放射線があたるため、あたってしまった部位にある種の「やけど」を引き起こし、それが重大な副作用となる場合があります。
この場合の放射線は、生体にとってやはりとても強い「邪」になります。しかし、放射線療法を開始する数週間前から、「正気」を補う漢方薬を服用しておくと、その副作用を軽減できます。このときに用いられる漢方薬は、やはり補中益気湯や十全大補湯が推奨されています。放射線療法を受けているとき、あるいはすでに受け終わってからでも、ある程度の効果は期待できます。
? 抗がん剤を使用していないとき
がんは「邪」なので、それを攻撃することが治療になります。それが、化学療法であり、手術療法であり、放射線療法であるということはすでにお話ししました。
では、それらの治療を全く受けない患者さん、受けられない患者さん、あるいはすでに全て受け終わった患者さんはどうすれば良いのでしょう。
実は、漢方薬にもがんを攻撃する「瀉」の処方があるのです。「邪」を攻撃する漢方薬は瀉剤と呼ばれます。代表的な処方に通導散、防風通聖散があります。「邪」を駆逐するためには、何らかの方法で体外に出す必要があります。「瘀血」は便から、「痰飲」は小便や汗から出します。がんは、漢方的には「瘀血」と「痰飲」のかたまりと考えられており、通導散や防風通聖散にはかなりの量の下剤が配合されていますので、大抵は下痢しますが、ひどく下痢する場合は量を調節します。
なお、これらの瀉剤を服用すると、当然ながら、生体の「正気」は減少してきます。ですから、補中益気湯や十全大補湯などの補剤の使用は、西洋医学的抗がん療法のときと同じように、ここでも必要です。
煎じ薬になると、さらに選択肢は広がります。後述します。
4.煎じ薬が使用できる場合
全国には、煎じ薬を処方してくれる医師(漢方医)が何人かいます。せんじ薬は、処方内容を患者さんに合わせて自由に組み立てることが出来、量も自由に調節できます。また、エキス剤(医療用漢方製剤)と同じように、健康保険で大半が処方可能です(例外有り)。
煎じ薬は、正気の不足に対しては補い、邪気に対しては瀉すという形の処方構成をとることが可能です。
基本的には、漢方医学的な診断である「証」にもとづいて処方を組み立てます。この場合、日本の漢方医学と中国の中医学とでは、病態の把握法が異なりますが、これは経験豊富なそれぞれのお医者さんに任せましょう。
癌に対する処方の考え方は、上に述べたとおりですが、煎じ薬の場合、処方の選択肢の幅が格段に広くなります。「正気」を助ける生薬と「邪」を瀉する生薬を自由に選択でき、さらに病態に応じて調節を細かく行うことが出来る、という点で、エキス剤に勝ります。
5.抗がん生薬
煎じ薬の場合、いわゆる「抗がん生薬」を使用できるのも、大きな利点です。
漢方薬の中には、これまでの経験とそれにもとづく実験などから、抗がん作用があるとされるものがいくつか発見されています。白花蛇舌草、半枝蓮、竜葵、七葉一枝花、山豆根、紫根などです(紫根以外は健康保険の枠外です)。
なお、「正気」を補う生薬としては、人参や黄耆、茯苓などのほか、保険外で霊芝や冬虫夏草があります。
古来、漢方薬には「抗がん生薬」という分類はなく、それぞれ「証」にあわせて用いるのが本来の形でした。つまり「抗がん生薬」というのは、近年の研究の結果、新たに発見されて分類されたもので、主として中国での研究成果に基づいています。
6.煎じ薬を患者さんが飲むということ
煎じ薬は、患者さん一人ひとりに向けて処方します。その患者さんだけの処方です。
西洋医学的治療は、それぞれの患者さんについて治療プログラムを組み、患者さんの状況やデータを見ながらそれを実行していきます。放射線療法、手術療法、化学療法と一通り終了し、その後も出来る限りの手をつくしますが、それでもなお状態がよくならず、全ての方法をやりつくすと、あとは御自宅でお過ごしください、と言うよりほかなくなるのです。医師もつらい思いをします。
漢方薬は、そういうときでも役に立ちます。特に煎じ薬は、その時々の状態に応じて、適切な生薬を選択し、適切な処方を組み立てるのです。最後まであきらめません。飲める限り、医師もあきらめません。
漢方医学とは、そういう医学なのです。
7.漢方薬が癌を悪化させることがあるか
漢方薬ががんを悪化させることがあるかもしれない、ということを考えられたことはないでしょうか。
これはありうることなのです。
正気を補う漢方薬(補中益気湯、十全大補湯、人参養栄湯など)は、多くの場合、がん患者さんのQOLを向上させ、質の高い延命が期待できます。しかしながら、これらの補剤は、時としてがん細胞をも補ってしまい、そのときに、がんが一気に悪化してしまうことが、まれにあります。ですから、がんを駆逐する治療を何もしないで補剤のみを用いる場合には注意が必要です。
8.食べられなくなったら
漢方薬は、基本的に口から飲む薬です。多くの利点はここに存在しますが、欠点になる場合もあります。食事が摂れなくなったとき、漢方薬も飲めなくなることが多いからです。
これは、患者さんにとっても治療する側にとっても大きな問題です。
漢方医学の立場でこの問題を考えてみます。
食べられなくなったら、体力は落ち、体の維持は出来なくなり、急激に衰えていきます。西洋医学的には点滴などの方法もあるとはいえ、やはり限界があります。
一方、煎じ薬も補剤のエキス剤も、がんの為に使用する薬は、量が多く味もおいしくありません。このときは、漢方薬も量が少なくておいしいものに変更し、できるだけ食欲を保つようにします。生命力の根源は、漢方医学で言う「脾胃」にあります。脾胃の力を強めるために使用する処方は限られますが、例えば人参湯はおいしく、食欲がなくなった患者さんも飲むことが比較的容易です。
人は「食べる」ことが基本であることに留意すべきです。漢方医学はそこまで考え、対応する医学なのです。
以上、漢方薬の癌に対する考えかたやその効果について、基本的なことをご説明しました。次回以降で、具体的なことについて解説していきます(続)。
参考になる本
巷には、がんが治るという情報があふれています。インターネットの情報はすさまじい量ですし、書籍も少なくありません。どれを信じて良いか、迷われる方も多くいらっしゃることでしょう。これからがんの治療を開始しなければならないという状況におられる患者さん、あるいはすでに西洋医学の標準治療を受けておられる患者さんが、漢方薬による治療を望まれたときに、どのような知識を持てば良いのでしょうか。
ここでは、多くの本の中から、患者さんの役に立つと思われる書籍を4冊選んで紹介します。
1.星野恵津夫著『漢方によるがん治療の奇跡』海竜社2013
タイトルの前に「がん研有明病院で今起きている」とあるように、著者は、がん研有明病院で、がん患者さんを対象に「漢方サポート外来」を開いておられます。漢方薬でがんを治療するということの内容と、その大変さが、この本を読んでお分かりいただけると思います。患者さんに、できるだけ良い状態で、できるだけ長く生き続けていただくこと、これが医師としての星野先生の願いであることが、ひしひしと伝わってきます。
この本の中には、これまでの多くの研究成果とご自身のご経験に基づき、最先端のがん専門病院の中で、西洋医学的に最善を尽くしてもなお状況が好転しない患者さんに対して、あるいは副作用に苦しむ患者さんに対して、持てる知識を総動員し、患者さんに最適の漢方薬を提供しようとする星野先生の面目躍如たる姿が見られます。
2.清水宏幸著『新しい医療革命』集英社 2002
著者は、作家の陳舜臣氏から「国手」と呼ばれた名医で、「中医学(中国の漢方医学)」の権威であられました。この本は、その中医学の観点から書かれていますが、「第四章・悪性腫瘍の中薬を用いた新しい治療(117?139ページ)」は、23ページの短い記載ながら、珠玉の一篇であるといえます。清水先生は、この中で中医学によるがん治療の基本的なことを書いておられますが、これこそ、漢方薬を用いたがん治療の標準と言えるものです。
先生は、ご自身のクリニックで、多くのがん患者さんを漢方薬によって治療されました。残念ながら、経験された膨大な成果をほとんど公表されないまま他界されましたが、ご子息の清水雅行先生がお父上のクリニックを引き継ぎ、同じスタイルの診療を行っておられます。近いうちにその成果を御発表になるでしょう。
3.田口淳一著『名医に聞く・あきらめないがん治療』ブックマン社 2014
この本は、帯に「昔は治らなかったがんが、今なら治る可能性は十二分にある。あきらめない気持ちが、新たな医療との出会いを生みます」とあるように、最先端のがん治療を紹介しながら、患者さんの選択肢はまだまだたくさんあるのだということを、各領域の専門家の話によって分かりやすく説いています。
がん治療がここまで進んでいるのだと驚かれる読者諸氏も少なくないと思われます。この中に漢方医学に関する記述は何一つありませんが、漢方医学こそ最先端のがん治療に結びつくものであることは、上に述べました。この中にこそ、漢方治療が入るべきであるということを、逆に認識していただけると思います。
4.黒岩祐治著『末期がんと漢方』ID出版 2012
これは、著者が、肝臓がんのお父上の闘病の様子を、家族の立場から描いたもので、末期がんに対して漢方薬が重要な役割を果たすところを、医師の目ではなく、一般人の目線で見て、その一部始終を書いておられるところに強い説得力があります。この患者さんの場合、信頼できる中医師(中国の漢方医)がそばにおられました。患者さんも家族の方もその先生を心から信頼し、希望を持って治療に取り組んでいく様子はとても感動的です。
一般的に、がんが漢方薬で治るということは、ほぼないと言えます。しかし、漢方薬を用いてがんの治療を行うということは、患者さんの可能性を無限に引き出すことにつながるということを、この本は教えてくれています。「あきらめないがん治療」の選択肢の一つとして、漢方薬は極めて重要だということの良い例だと思います。